本行寺
鶴舎有節・・・国学者。俳人。商人。 弘前の豪商 鶴屋宇兵衛の二男。内海草坡、三谷句仏に俳諧を学び弘前藩主 津軽順承にも教授した。
安政4年(1857年)2月平田銕胤に入門し門人帖に名を連ねた。文化5年(1808年)生誕。明治4年死去。
本多庸一・・・弘前藩士。宗教家。 明治元年、弘前藩の奥羽越列藩同盟脱退を不満とし、庄内藩からの使者と共に脱藩。
庄内藩に対し切腹して詫びようとするが庄内藩士に説得されて止めた。明治元年9月、弘前藩兵の捕虜部隊を編成し、庄内藩軍に加わり秋田戦争に従軍。
庄内藩降伏後は弘前藩に帰藩。箱館戦争では弘前藩参謀として従軍。
維新後は英語を学びキリスト教に入信。東奥義塾塾長。弘前教会設立。青山学院院長。日本メソジスト教会初代監督などを歴任。
嘉永元年(1849年)12月13日生誕。明治45年3月26日死去。
山中逸郎・・・弘前藩家老。 慶応4年(1868年)奥羽列藩同盟結成時に白石会議に出席し藩を代表して連判した。
弘前藩が列藩同盟脱退した際には責任を取り辞職しようとしたが慰留された。
維新後の明治2年に弘前藩大参事となり、廃藩後は公職を辞して隠遁する。文化10年(1813年)生誕。明治11年死去。
函館戦争で敗戦した旧幕府軍が収容された地。
住所 青森県弘前市新寺町92
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鶴舎有節 |
鶴舎有節 |
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本多庸一 |
本多庸一 右面 |
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本多庸一 |
山中逸郎 |
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山中逸郎 右面 |
山中逸郎 左面 |
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山中逸郎 裏面 |
山中逸郎 |
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本行寺 |
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